皮膚のずっと奥、もっと内部へ入りこんでいきたい。
内と外の境目があいまいだった。どこまでが内で、どこまでが外かがわからない。
あらゆる声と言葉がいつも皮膚を貫いて、すべてが遠慮なく入り込んでくる感覚があった。内外の定義がうまくできない。本来それは意図的に区別するものではないからである。うまく閉じられなければ当然うまく開くこともできない。
内にある秩序から外にある秩序を見つけたい。外からわかろうとしてもいつもわかることがない。生まれることは外に出ることである。部屋を出たときはじめて、そこが部屋であったことを知るのである。
とりとめのない描画を続けていると、そこには秩序が立ち現れてくる。外にある指標を参照したわけではない。内側からおのずと整頓されていくのである。内奥に潜り込むことで、外にある秩序と共通した形態があらわれてくる。もっとも個別的であるようで、もっとも普遍的な元型がある。
内から立ち上がってくる秩序は、外的に定義された秩序と似ているようで、そこに優しさがある。経験科学的に定義される定量化の指標や、コンピュータ・システム、文字組みをするさいのグリッドシステム、これらは全て外に作られた秩序である。古代から長らく大宇宙と小宇宙はよく照応された。空の観察は大局的な法則への参照へと移行した。寓話に綴られた飛翔への憧れはついに航空機を開発した。
内部の秩序を回復させてはじめて霧が晴れた。外部環境の改善は不可欠だが、同時に内部を再組織化することが求められるのである。没頭はこれに近い。
適応性の問題がある。内と外はよくつながらなければならない。そのためには外だけというわけにはいかない。おのずと立ち現れる秩序に立ち入らなければならない。
秩序は外だけではなく、内にもある。
内側の秩序に到達すれば、おのずと行為は組織化されてくる。
これは個体化の基本的な原理でもある。玉ねぎの断面にみられるように、システムの組織化は内部へと入り込んで進行していく。
貝殻のらせん構造や生物の体表にあらわれるパターンを観察してみれば、その秩序の形成がたんなる合目的的ではないことはわかる。自然の形態というのは外部統制によって生み出されるのではなく、おのずとそうなったのである。
さて内部の秩序に到達するためには、部屋を作らなければならない。これは内外を隔てる膜を指す。
身体の形成というのは内外を区切るようにして繰り返し形成されてくるものである。(玉ねぎの断面がわかりやすい)
境界そのものは、内部でも外部でもない。膜は本来とてもやわらかい。
オートポイエーシス論において、身体を考察するさいには従来の機械知的な部分-全体の構成からではなく、内外の出現という事象を基調に考察される。部分-全体関係は視覚的なイメージ像に従っているが、内外区分は触覚的な身体イメージである。
内外区分は、二重接触において、触るものからの内外区分と触られるものからの内外区分が進行し二重に境界の形成が進む。それは断続的に変動しつつ身体の境界を形成し、自己という活動態のまとまりをつくる。境界は被動的なかかわりから能動的なかかわりが組み込まれることで、二重になっていくのである。
開くことよりも閉じることのほうがよっぽどむずかしい。